死んでないだけの日常

日々の生活とか出会ったもの

福岡に引っ越した

1週間くらい前、会社での異動により千葉県から福岡県に引っ越してきた。思い返せば大学への進学から今まで、まぁまぁな回数の引っ越しをしてきたように思う。大学進学で地元から離れるときで1回、大学在学中に2回、新卒での入社で1回、その後の異動で1回、退職して家賃の安いところに移って1回、再就職して1回、知人の1軒家を借りることになり1回、そして今回の異動と、数えてみたら9回も引っ越ししてた。思ったよりも多かった。引っ越しは多少は慣れた気がするが、引っ越し作業には毎回うんざりするものだ。一人暮らしだから物は少ないと思って引っ越し直前までダラダラしてたら、意外と時間が掛かって搬出の前の夜は遅くまで梱包したりした。または朝早めに起きて頑張ろうと思って結局あまり早く起きなくて、涙目になりながら必死で梱包をしてきた。多分自分は一人暮らしにしては物が多い方なので、引っ越しのたびにもっと物を減らして身軽になろうとか考えるけど、結局あまり変わっていない気がする。

 

これまで住んできたのはアパートや賃貸マンション。今までの経験から、基本的には鉄筋コンクリート造のマンションを物件を選ぶ際の基準にしようと決めている。大学時代や就職してからも木造アパートに住むことはあったが、やはり木造は音が伝わりやすいため、周囲の部屋の音が聞こえてめっちゃ気になる。特に前職を退職してからのアパートでは話し声とかもなんとなく聞こえるんじゃないかというレベルで、結構ストレスが溜まった。まぁあのアパートの壁が特段薄かったのかもしれないけど、今後は木造アパートはやめようと思った。木造アパートでも角部屋とか、隣の部屋との間が階段とかになってるような構造であれば問題ないかもしれないけど。これまで住んだ鉄筋コンクリート造のマンションでは、今のところ隣の音は気にならない。壁を叩くとズシッとして揺るぎない感じ?があるので、壁が厚いのだろう。ただし上下の音は多少聞こえて足音とかわかるけど、木造アパートと比べると気にならない。こういった理由から、住まい探しにおける自分の中での基準の1位は鉄筋コンクリート造だ。

 

そして今回の異動により引っ越した先の物件も鉄筋コンクリート造だ。ただしここは会社が借り上げている団地であり、物件を選ぶ権利はなかったのだが。この団地は築40年以上も経つ古い建物で、事前に周りの人から噂は聞いていたが色々と驚かされるというか新鮮なことが多かった。まず、お風呂は「バランス釜」というやつで、現在一般的な給湯器のボタンを押してとか熱湯と冷水を半分ずつ出してとかではなく、風呂釜の隣にでっかい給湯器がついていて、それをコンロのガスを点けるみたいにガスを出してハンドルを回して点火して…とかが必要なタイプだ。このタイプのお風呂は初めて見たので、ガスの開栓の立ち会い時に業者さんに使い方を教えてもらった。何回かやってみると慣れた。また、お風呂には換気扇がないため、換気は窓を開けておくしかない。トイレにももちろん換気扇はないので同様だ。もちろん温水便座もない。あと、洗面台がない。なんていうか洗面台の上半分の鏡とか照明はあるけど手の洗える台がないため、歯磨きその他はキッチンのシンクで行うことになる。また、給湯器がないのでキッチンでお湯が出ない。顔を洗ったりはお風呂場で行かないとできないので地味に辛い。

 

等々、不便なところや驚かされることも多いけど、なんとかここに住んでいくしかない。不便なところを少しでも無くして便利にしていけるよう、古い物件に住む人達のブログなどを覗いて工夫を真似していこうと思う。団地の造りは鉄筋コンクリートなので、静音性はまずまず(上階の子供の足音とかは結構聞こえるけど)。それに3部屋あるので結構広く使える。家賃も個人負担じゃない。数ヶ月もしたらここでの暮らしもすっかり慣れるのかもしれない。

部屋の改善や新しい土地でのことを今後も少しずつ書いていくことにしようと思う。

f:id:nona-jackson:20200921224528j:plain

ウチのバランス釜!

自我を失ったかのように生活する

最近は仕事で帰りが遅い日が続いている。通常の感覚では締め切りすぎているような仕事をいくつかか抱えているうえ、新たな急ぎの案件も飛び込んできてそれらをこなしていくのにアップアップしている。放置してしまっている仕事は日が経つに連れ状況は悪化していき、考えるのも嫌になってくる。あー学校みたいに会社も新型コロナウイルスの影響で一時的に閉鎖とかならないかな、とか考えている。

 

そんな自分だが、タイトルの通り自我を失ったかのように生活することを考え始めた。どうすれば日々が少しでも好転し、自分を前に進められるかをいろいろ考えた結果、とりあえずで自我を失うかのように生活することを試している。自我を失うっていうとわかりづらいけど、なんというか、ロボットになったつもりというか、なるべく感情を発生させずに目の前にあるものを受け入れて淡々とこなしていく、というような考え方だ。淡々と単純作業をこなしているときの頭のような感じで、あーこれやらないとって感じたものを淡々とやっていく。あまり考えない。そういうもんなんだって受け入れて、やる。このようにロボット感を意識することにより、物事に対する最初のステップが早くなったような気がしないでもない。なんというか、面倒くさいとかやりたくないとかいう気持ちの前に行動するみたいな感覚。まぁ今後上手くいくかはわからないけど、とりあえずロボット感を意識しながら生活してみようと思う。ちなみに、この考え方の参考にしたのはWebメディアのデイリーポータルZにあった自我喪失によるダイエットの記事だ。興味ある人は調べて下さい。

大学時代の友人と会った

昨日は久しぶりに大学時代の友人2人と飲みに行った(自分はほとんど飲まないのだが)。2人とも結婚した&する予定ということで、その報告のために飲みに誘ってもらった形だ。

結婚までの経緯や最近の仕事の状況、不満などをいろんなことを話した。自分にとっては結婚ってだいぶ遠いことというか、自分から離れたものということであまり意識することはなかったけど、友人が結婚するってなると、「あぁもう結婚する歳なんだよな」って思わされる。仕事の話でも、各々不満は持ちながらもしっかり社会人としてやっているようで、それと自分を比較してなんだか一人取り残されているような、そんな情けない気持ちになる。社会人としてちゃんと働いて、そのうえ結婚までしてって、みんなちゃんと「普通に良い」人生を歩んでいってるよなと思う。一方で自分は仕事も上手くいかなくて辞めたいなんて考えてるんだから、ずいぶん違うよな。久しぶりに話すことができて良かったし楽しかったけど、自分と友人の現況を比べて少し落ち込む部分もあった。社会に出ると徐々にそれぞれの環境にも違いが出だして、だんだんと大学時代と同じような付き合いができなくなるっていうのはよくあることだろう。しかも家庭を持つと前みたいに時間もなくなるだろうから、余計に付き合い方にも変化が出ると思う。それによってだんだんと疎遠になっていくのもあるあるだと思うけど、それだとただでさえ狭い自分のコミュニティを狭めてしまうことになってしまうため、避けなきゃなぁ。自分も、なんというか堂々としていられる生活・人生を進んでいくようにして、対等に付き合っていけるようにしたい。口だけなんだけど。

人々の中に属していく

最近、改めて人は一人でいるより、いろんな人の中に属している方が成長できるのかなと思った。まぁ当然なことだと思うし、前からそんな気がしてたけど。

一人でいてもなんでもよく出来て成長していけるって人も当然いるだろう。でも、自分のことを振り返ってみると、かなり周りに流されて努力したりまたはしなかったりして来たように思う。大学時代なんかは人との関わりが多いほうじゃなかったから、結構だらけていた。自分みたいな人種も結構いるんじゃないかなぁ。人の目がないと頑張る気がしてこないタイプ。たぶん少しはナルシストが入ってるのかもしれない。人の目が近いとよく見られたくて不思議と頑張れるみたいなね。

自分みたいなタイプは、できるだけ人の集団というかコミュニティの中に属してたほうが自分にとって良いんだろうな。正直あまり集団に属すのは得意じゃないんだけど、一人でいるよりは刺激もあるし人の目も感じれて頑張れることが増えるのではないかな。

最近はSNSを使えば身近にいなくても繋がれて、そのおかげで人の目を感じることができる。上手く活用できれば物理的に周囲に誰もいなくても、モチベーションを維持することができるかもしれない。

なんにせよ、一人でいることは楽だけど、いろいろデメリットもあるんだ。自然と頑張れる環境とかコミュニティとかを探してそこには身を置くことが、案外楽に前進していけるコツなのかなと思う。当然か。