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土井善晴『一汁一菜でよいという提案』

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料理研究家である土井善晴氏の『一汁一菜でよいという提案』を読んだ。

本書の存在をどこで知ったのかは忘れてしまった。自分は普段料理をしない人間なのだが、健康のことを考えるとできれば自炊をしたいなと考えていた。今回の本は、普段の料理は一汁一菜で十分だという考えをもとにした本だと知ったので、自分の生活に料理を取り入れていく上でヒントになるんじゃないかと思い、読んでみるに至った。ちなみに以前読んだ料理(というか自炊)に関する本はこちら。popmusictown.hatenablog.com

 

本書ではレシピ本ではなく、一汁一菜という食事の形式を元に生活することを、日本人にとっての食事のあり方や歴史を語りつつ、勧めている。たくさんのおかずが並んだ食卓が普通だと考えがちだが、日本人の家庭料理では必要以上に手を加える必要はなく、素材をそのまま頂くという考えで良い。日本人の食事に「ハレ」と「ケ」という区分があり、人間のために作る日常の食事は「ケ」だ。現在はこの「ハレ」と「ケ」の区分がごっちゃになって食卓に持ち込まれてしまっている。

 

また、現代の日本では、出来上がったものを買うことで料理することを省略できるようにもなった。しかし、食事という行動には食べるということ以外にも様々な知能や技能を養う学習機能(人間の根源的な生きる力)が組み込まれているものであるため、料理をしないということは、生きるための学習機能が発達しないということに繋がり、心の発達やバランスに悪い影響を及ぼす。食べることは生きることであり、良く食べることは良く生きることだ。

 

「ハレ」と「ケ」を区別し、日常の料理に必要以上に手を掛けずに料理を行っていくうえで役に立つ料理スタイルが「一汁一菜」だ。この一汁一菜の柱は味噌汁であり、味噌は日本人のもとに古くからあったもので、日本人の健康の要だ。味噌は万能な調味料で、いろんな食材を一緒に使ってもたいがい問題ない。前日に残りのおかずを入れても大丈夫。また、洋食と合わせることも可能で、パンと合わせることもできる。

 

作る時間もないのに、無理しておかずを作らなくても、具沢山の味噌汁があれば十分な食事となる。でも、一汁一菜に縛られる必要はまったくない。一汁一菜を基本のスタイルにして、たまにご馳走などをプラスするなど、様々な楽しみはおのずから生まれてくる。

 

一汁一菜を基本とすることで暮らしに秩序が生まれる。人間の暮らしで大切なのは、「一生懸命生活すること」だ。上手にいってもいかなくてもそんなことは問題ではなく、一生懸命するということが大事なのであり、そこから生まれるものは純粋で美しいのだ。

 

本書では一汁一菜というスタイルを提案すると同時に、日本人の食事のあり方・歴史・役割、和食が世界の食事と比べて異なる点、日本人の感性、などについて語られている。脳が感じる美味しさと体で感じる美味しさ(安心感)の違いや、日本における「ハレ」と「ケ」の役割、雑味や不要なものを徹底的に排除した洗練さを尊ぶ和食の考え方など、新たに知ったことが多かった。

 

料理をすることで生きる力が育まれるということから、自分も今後は味噌汁から料理をはじめていこうと思った。料理の出来栄えは大きな問題ではなく、日本人の健康の要である味噌を使った味噌汁を作って食べるということが大事なのだ。味噌汁は自由だ。あまり失敗もしにくい。自炊初心者にはうってつけだ。

 

家庭における料理や家族への影響についても語られている。今後改めて読んだときに学べることも異なると思うので、いつかまた読み返してみるのもいいと思う。

 

一汁一菜を基本に、一生懸命丁寧に生きることが、日本人の感性を守っていくことに繋がるのだと知った。料理だけでなく、生きることにヒントを与えてくれる一冊と感じたのだった。

 

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ご飯を食べ、味噌汁を飲んでいるとき、おいしさ以上の何か、心地よさを感じていると思う。

お肉の脂身やマグロのトロは、一口食べるなり反射的においしい!と感じるが、このような脳が喜ぶおいしさと、身体全体が喜ぶおいしさは別だ。

 家庭にあるべきものは、穏やかで、地味なもの。

 人間の「食べる」は表層的なおいしさだけを求めているのではない。

 一汁一菜は決して手抜きではない。

 家庭料理、日常に料理は、調理の基本である下ごしらえなどの当たり前の調理以上にはそもそも手をかける必要はない、というのが本当。毎日の料理は食材に手を掛けないで、素材をそのままいただけばよい。

日本には「ハレ」と「ケ」という概念がある。ハレは特別な状態、祭り事。ケは日常。ケの食事とハレの食事の違いは「人間のために作る料理」と「神様のために作る料理」という区別。そのため、考え方も作り方も正反対なもの。

日本には少なくとも、手を掛けるもの、手を掛けないものという二つの価値観がある。一見相反する二つの価値観を併存させ、けじめをつけて区別し、場によって使い分けるところには、それぞれの合理性がある。ところが、今の日本は、その二つがごちゃごちゃになって混乱している。

多くの人が、ハレの価値観をケの食卓に持ち込み、お料理とは、テレビの食番組で紹介されるようなものでなければならないと思い込んで、毎日の献立に悩んでいる。

生きるためには身体を動かし、立ち上がり、手を働かせ、肉体を使って食べなければならない。ゆえに、「生きることの原点となる食事的行動には、様々な知能や技能を養う学習機能が組み込まれている」。それは、人間の根源的な生きる力となるもの。

私達のいる現代日本では、出来上がった料理を手軽に買い求めることで、「料理する」を省略できるようになった。となると、人間は食べるために必然であった行動(働き)を、捨てることになる。「行動(働き)」と「食べる」の連動性がなくなれば、生きるための学習機能を失うことになり、行動して食べることが心を育てると考えれば、大いに発達やバランスを崩すことになってしまう。

自分自身を大切にしたいと思うなら、丁寧に生きることだ。独り暮らしでも食事をきちんとして欲しい。そうすることで、自分の暮らしに戒めを与え、良き習慣という秩序がついてくる。

私達は生きている限り「食べる」ことから逃れられない。離れることなく常に関わる「食べる」は、どう生きるのかという姿勢に直結し、人生の土台や背景となり、人の姿を明らかにする。「食べることは生きること」と言われるのはそのためで、間違いなく「良く食べることは良く生きること」である。

 

米の扱い方と炊き方

全体を一度濡らしてから水気を切り、それほど力を入れずにぐるぐる指でかき混ぜて手早く洗い、にごりがなくなるまで水を替えて、ぬかが落ちてシャリッとすればザルにあげる。そして、乾物である米に水分を浸透させる。米を水に浸しっぱなしにすると雑菌が急激に繁殖するので、水気を切ることが大切。40分ほど置いて吸水させる。水から上げておいても表面に残る水分で間に合う。芯まで水を含むと、白くふっくらしてくる。この状態が「洗い米」。

ただ、毎回炊く30〜40分までに洗うのは現実的に難しい。だから、私は米を洗ってからシャッシャッとしっかり水気を切ったらすぐにポリ袋に入れて、炊くまで冷蔵庫に入れて取り置いている。

2日ぐらい置いておいても大丈夫だか、微妙に味落ちる。

 

炊飯器であれば早炊きモードで大丈夫。洗い米としてきちんとして吸水されているので早炊きでよい(今の炊飯器は吸水していない米をすぐに炊きはじめるとして基準が設定されている)

 

一汁一菜は味噌を柱とする。味噌汁さえ作ればなんとかなると思ってよい。

味噌の調味料としてのすごいところは、少しくらい多くても、あるいは少なくても美味しくできるところだ。

具は何を入れても結構。肉は少し、野菜を多めにすると良い。前日の遺りの鶏のから揚げを野菜と煮込んで味噌汁にしても良い。こうした味噌汁は毎回違う味になる。再現性はないし、あまりおいしくならないこともあるが、たまにびっくりするほどおいしくできるとこもある。そのうち、おいしいとかまずいとかは大きな問題ではないことが分かる。

分量の目安は、実際に味噌汁に使うお椀を利用すると良い。刻んだりちぎったりした具の総量をお椀に多めの一杯として、水もお椀に一杯とする。

それらをすべて鍋に入れて火にかければ、大抵はすぐに煮えてくるので、硬さや柔らかさの煮え加減を確かめて、後は味噌を溶く。具沢山の味噌汁は味噌を溶いてからしばらく煮込むと味がなじむ。

うま味の強い食材(ベーコン、肉など)が具に入れば、いわゆるだし汁はなくてもおいしくなる。だし汁の代わりに、野菜を油で炒めたときも同じ効果がある。先に焼き炒めてから水を注ぐ。特にキャベツは効果的。

二人分を作るときは、水分量をそのまま2倍にしてしまうと、蒸発率の関係で水分が多くなる。人数が増えるほど水を少しずつ少なめにする。

火の通りにくい里芋やじゃがいもを入れたいときは、先にかた茹で程度になるまで火が通ってから、他の具材を入れる。

卵を入れるのであれば、味噌を溶いてから煮立ったところにそっと割り入れて、火を弱めて好みの加減に3〜4分火を通す。

 

ご飯がパンに変わっても一汁一菜はできる。パスタと味噌汁でもよい。一汁一菜の柱である味噌汁は日本人の健康の要であり、やはり味噌汁だけは意識的に毎日飲もうと思っている。

 

作る余裕も時間もないのに、できっこないのに、おかずまで作る必要はない。

一汁一菜だからといって、ご馳走を食べないと決めるわけではない。いろいろな日があるわけで、それでよい。一汁一菜というスタイルを基本にして、暮らしの秩序ができてくれば、おのずから様々な楽しみが生まれるもの。

 

人間の暮らしで一番大切なことは、「一生懸命生活すること」だ。料理の上手・下手、器用・不器用、要領の良さでも悪さでもない。一生懸命したことは、一番純粋なことだ。そして純粋であることはもっとも美しく、尊いことだ。

 

素材を生かすことが和食の理想。その洗練されたおいしさはどこにあるかというと、アクを抜いた、白くした、雑味をなくした、食材の核のようなところに、ある。雑味や雑臭のあるところでは感じることもできなかった、微妙で繊細な美味(または美臭)がある。

 

日本ではきれいなものを極めて生かすのだが、それと同時に不要であるとしたものを捨ててしまう。「もったいない」が日本の心として世界に評価されているが、実はびっくりするほどもったいないことをするのも日本人なのだ。

 

日本にはそもそも主菜と副菜を区別する習慣はなかった。すべてがご飯のおかずだった。今、副菜的な扱いになっている切り干しには油揚げが入っているし、味噌汁には味噌と豆腐が入っている。副菜と言っても、主菜の食材である油揚げや少量のお肉が入っている。日本のおかずは、常に主菜を兼ねた副菜であり、副菜の要素を兼ねた主菜であった。

 

毎日触れるもの、毎日見るものは、いいものが良い。よそ行きのものよりも、毎日使うものを優先して、大事にすること。人間は道具に美しく磨かれることがある。

いい器とは、なんでもない炒め物一つでも、おいしそうに見せてくれるものであるし、茶碗は手で触れて持ちやすいもの、唇に触れて気持ち良いものもある。自分に似合うことも大切。

 

一人で食べることが多いならお膳を用意すると良い。お膳をすすめるのは、お膳の縁が場の内側と外側を区別して、結界となるから。机の上が散らかっていても、お膳の中はきれい。すると、一人で食べる食事にけじめがついて、気持ち良く、食事がだらしなくなりにくい。

 

一汁一菜でよいという提案

一汁一菜でよいという提案