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トム・スタンデージ『歴史を変えた6つの飲物』

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 トム・スタンデージ氏の『歴史を変えた6つの飲物』を読んだ。

 本書を読むきっかけとなったのは、どこでかは忘れてしまったが、いつもの如くネット上で紹介されていたから。歴史ものが好きな自分としてはタイトルでそそられるものがあった。著者のトム・スタンデージ氏は(今はどうなのか不明だが)エコノミスト誌の副編集長で、この本の他にも何冊から歴史本を出版しているようだ。本書は17か国語で翻訳版が刊行されているベストセラーとのこと。

本書では、タイトルの通り、6つの飲物を切り口として世界の歴史を語っていく。6つの飲物とは、ビール、ワイン、蒸留酒(スピリッツ)、茶、コーラだ。これらの飲物はそれぞれが各時代を代表する飲物であったり、時代背景から人気が出た飲物たちであり、歴史と深く関わっているというのが著者の主張だ。

 本書では、6つの飲物が生まれた歴史的背景などがわかりやすく解説してある。自分は普段アルコール飲料はまったく飲まないので、それらがどういったものか、歴史的にいつ頃に生まれて、どういう方法で作られ、種類ごとにどんな違いがあるのかについてよく分かっていなかった。本書を読んで多少その辺りの知識を得られたのは良かったし、それぞれの飲物についての歴史はとても興味深いものだった。歴史好きはたぶん大好きな内容なので、興味があれば読んでみてはどうかと思う。この他にも食べ物や道具などから歴史を解説する本はたくさんあるので、そちらも今後読んでみたいと思った。

以下は自分用のまとめ

 

ビールは先史時代からあった。製法が簡単で、穀物の粥が大気中の酵母の作用により糖がアルコールに変化することによって生まれた。人を酔わせるビールには超自然的な力があると古代の人々は感じ、神々からの贈り物として扱う。そして神々に健康や成功を祝ったりする際にもアルコールは用いられ、その考え方は現代にも残っている。メソポタミアやエジプトではビールは通貨としても使用され、労働者への給料してパンとともに支給されていた。ビールは古代から労働者の飲み物の定番であって、気取らない場所ではビールが主役というのは、古代と現代で変わらないようだ。ちなみに、現代のビールには苦味を加えてスッキリとした味わいにするホップが加えられているが、これは12世紀から15世紀頃のことようだ。

 

ワインも先史時代に生まれていたようで、ブドウの皮の酵母の作用により、ブドウを潰した果汁の糖がアルコールに変化して生まれた。穀物から作るビールと違ってブドウの生産は少なかったため、当時ワインを口にできたのは裕福な人々のみだったようだ。しかし、徐々に一般の人々にもワインが広まり、徐々にビールよりもワインが人気となってくる。古代ギリシアでは、ワインを水で割ったものを飲むシュンポシオンという私宴が一般的となり、ギリシア哲学者たちはその場で各自の考えなどを洗練していった。ワインを嗜むことは文明的であり、洗練されたことだった。ローマ人もギリシアの影響を受けてワインを愛した。ワインは社会的階層を表すもので、階層ごとで飲むワインは厳格に決められていた。これらの名残か、現代のどの国でもワインは最も洗練された飲物とされ、公式晩餐会や政治サミットではビールよりもワインが供される。ワインは今でも、富、権力、地位と密接な関係にある。ちなみに、ワインは温暖な地域で生産されるため、歴史的に北ヨーロッパではビールとはちみつ酒が主だった。そのため、現代でも北ヨーロッパはビール、南ヨーロッパはワインという区分は続いている。

 

 蒸留酒(スピリッツ)はアルコールを蒸留してアルコール濃度を高めた飲物だ。古代からあった蒸留法がアラビア人からヨーロッパに伝わり、大航海時代にはアルコール濃度が高い故に傷みにくいなどの利点もあって人気となる。ヨーロッパの国々は新世界の植民地で砂糖のプランテーションを作り、奴隷をアフリカから輸入するようになる。砂糖生産の廃棄部からラム酒が作られるようになり、ラム酒は通貨代わりで奴隷の対価としてアフリカの奴隷商人に支払われる。そして買った奴隷で砂糖を生産するということが繰り返された。ラム酒は植民地政策と奴隷貿易なしには存在しえなかったものだ。ラム酒アメリカの独立にも関わっている。アメリカのラム酒生産者とイギリス政府の間での対立は、アメリカの独立の確かな原動力の一つとなっていたようだ。アメリカの開拓民はラムだけでなく穀物からウィスキーも生み出し、トウモロコシから作るバーボンも生み出した。蒸留酒はヨーロッパ諸国が世界に広がっていく時代に深く関わっている飲物だ。

 

コーヒーは15世紀頃にイエメンで飲まれるようになり、もともとは宗教的な飲物だった。そして17世紀頃にヨーロッパに紹介されて世界中に広まった。当時のヨーロッパ人にとってはアルコールに変わる安全な飲物として人気となり、古代にもない全く新しい飲物として思想家や知識人、ビジネスマンに好まれた。コーヒーハウスは科学者やビジネスマン、作家や政治家の意見交換の場所となり、コーヒーハウスは店ごと話題の専門性などがあった。コーヒーハウスは情報が集まってくる場所であり、理性の時代のインターネットの役割を果たした。コーヒーは今でも意見交換や議論の際に飲まれ、交流と協力を促す飲物でありつづけている。

 

茶はいつごろから飲まれるようになったのか不明だが、中国の唐朝期には国民的飲物となっていた。茶がヨーロッパに伝わったのはコーヒーよりも早かったが、大変高額だったため、影響は小さかった。18世紀はじめのイギリスでは茶を飲むものは誰もいなかったが、同世紀の終わりには誰もが茶を飲んでいた。当初は緑茶が飲まれていたが、輸入後に混ぜものがされる緑茶よりも紅茶のほうが比較的安全だったため、紅茶の人気が緑茶を上回り、苦味が強い紅茶にミルクと砂糖を入れる習慣も広まった。紅茶は生活必需品となり、地球の反対側から運ばれてくるにも関わらず、水に次ぐ安い飲物となった。茶は大英帝国の強大な力と広大な領土を表すものだった。茶はアメリカ独立にも深く関わっている。イギリス東インド会社アメリカでの茶の独占販売権をイギリス政府から認められており、これに反対した人々が茶箱を海に投げ捨てるボストン茶会事件アメリカ独立の一歩となった。イギリスが茶を愛好することで、中国との間では貿易不均衡が起きていた。その解消のために、東インド会社とイギリス政府は中国で禁止されていたアヘンの密輸を組織的に行い、通貨代わりといて用い、茶の対価とし始める。そして中国をアヘン戦争で敗北させることになる。アメリカの独立と中国の没落は、茶が世界史の流れに与えた影響の名残といえる。茶の物語には当時の大英帝国の強大な力の影響がみることができ、その影響はいまでも残っている。

 

 アメリカの台頭、20世紀におけるあらゆるグローバル化とコーラの普及はピタリと一致している。コーラは19世紀に流行っていた怪しい売薬の製造業者が発明したもので、ソーダ水に刺激作用のあるコカ・エキスやコーラの木のエキスが入っていた。コカ・コーラアメリカで非常に人気となり、ペプシコーラも安さゆえに人気となった。コーラは大量に生産、大量に消費され、貧富の際に関わらず口にできる飲物であり、アメリカを象徴するエッセンスの極みだった。さらにコカ・コーラは軍需品としても認められ、世界各地の基地でコカ・コーラの生産が行われた。その結果、基地の近くの民間人にも飲まれ、世界中の人々がコカ・コーラを口にした。コカ・コーラアメリアのみならず、自由、民主主義、資本主義という西側の価値観のイメージとなっていき、共産主義者は資本主義の欠点の象徴としてコカ・コーラをみなしていく。コカ・コーラは20世紀に起きた合衆国の台頭や共産主義に対する資本主義の勝利、グローバル化の進行などを象徴する飲物だ。

 

 

 

歴史における様々な飲み物も特有の必要性を満たしたときに、あるいは歴史的傾向と合致したときに多くの人々に受け入れられている。 

ならば、考古学者が石器時代青銅器時代鉄器時代と主要な道具の材質で歴史を分けるように、各時代の中心的存在だった飲み物によって世界史を区分けすることもできるはずだ。

ビール、ワイン、蒸留酒、コーヒー、茶、コーラは、どれも古代から現代に至る歴史の転換点において、各時代を特徴づけてきた飲み物なのだ。

 

ビール

穀物の薄い粥、特に大麦麦芽を数日間置いておくと、不可思議な変化が起きることに人々は気づく。この粥は軽い発泡性の液体に変化し、飲む者を軽く心地よくさせた。大気中の酵母によって液体に含まれる糖がアルコールに変化したためである。つまり、穀物の粥がビールになったというわけだ。

 

新石器時代の人々にとって、ビールを飲むと酔っぱらい、意識が変化するのは、不思議なことだった。同じく、ただの粥をビールに変える発酵という過程も不思議だった。ビールは神々からの贈り物、という結論に行き着いたのも、しごく当然なことだろう。

 

ビールは神々からの贈り物なのだから、ビールを神に捧げるのも理にかなう行いだった。杯を掲げ、健康や成功などを祈ったり成功を祝ったりすることは、アルコール飲料に超自然的な力を換気する威力があるという古代思想の名残なのだ。

 

生活様式が農耕型に移ったことで特にビタミンBの摂取源である肉類の消費は減少したが、ビールがその不足分を補う役目をした。ビールは水を沸かして作ったので、人間の排泄物ですぐに汚染されてしまう生水より安全な飲み物だった。つまり、ビールは濃厚の導入に伴う食べ物の質の低下を補う、安全な飲み物として集落の人々の滋養となった。

 

メソポタミア人やエジプト人、どちらの文化でもビールは主食の一つで、ビールがなければ完全な食事とは言えないほどだった。ビールは老若男女、富める者貧しい者など、万民に飲まれた。ビールはまさに、最古の二代文明を特徴づける飲み物だった。

 

メソポタミア同様、エジプトでも人々は穀類や他の品々を税として神殿に納め、それが公共の労働の対価として再分配された。つまり、大麦と小麦、その加工品であるパンとビールが単なる主食以上のものになり、便利な通貨代わりとして広く普及した。

 

ピラミッド建築に携わった労働者に対する標準的な配給はパン三〜四斤と、かめ2つ分(約四リットル)のビールだった。

 

ビールは医療にも用いられた。様々な香草や香辛料を調合するのにも使われた。

 

当時のビールに関するいくつかの習慣な考え方は数千年後の現代でも残っており、ビールは今も労働者の定番の飲み物とされている。また、気取らない、和やかな社交の場とビールの結びつきは、今も昔も変わらない。

 

ワイン

ワインの起源はビールと同じく先史時代にあり、詳しいことはわかっていない。ワインは潰したブドウの果汁を発酵させたもので、ブドウの皮につく天然酵母が果汁に含まれる糖分をアルコールに変える。ブドウまたはブドウ果汁を陶製の容器に長期間保存した結果、偶然にワインができたのだろう。

 

ワインを普段の飲み物として消費できたのは、やはり非常に裕福な人に限られていたのだろう。他の人々の間ではビールより少しだけ高いナツメヤシのワインが流行り、こうして紀元前1000年紀の間に、ビールをこよなく愛したメソポタミア人でさえ、ビールに背を向け始める。ピールは最も文化的かつ文明的な飲み物としての王位を奪われ、ワインの時代が始まった。

 

古代ギリシア人にとって、ワインを飲むことは文明および洗練と同義語だった。ビールよりもワインが、並のワインより上質のワインが、若い物より年代物が良いとされた。ワインの選択よりも重要視されたのが、ワインを飲む時の振る舞いだった。どう飲むかで、その者の本性が明らかになる、と彼らは考えたのである。

 

私的に酒宴を開き、水を加えたワインを消費することが社会的洗練の極みだった。この酒宴はシュンポシオンと呼ばれた。シュンポシオンで飲まれる水とワインの混合物は、ギリシアの哲学者たちにとって、数々の比喩を生む肥沃な土壌になった。

 

階層によって口にする種類が厳密に定められ、比類なき文化的洗練を誇り、 快楽主義と哲学的探求を促す力を持つ飲み物、ワインはまさしく、ギリシャ文化を体現するものだった。 こうした価値観はワインの輸出に伴い、遠隔地にまで広まった。

 

ローマ人のワインの品質に対するこだわりは、ギリシア人の比ではなかった。 ワインの質の違いは社会階層の違いの象徴であり、 高品質のワインはそれを飲む者の富と地位の証だった。

 

アラビアの人々は洗練の象徴として最も重要な意味を持つワインの消費を禁じることで、 ギリシャ人やローマ人よりも自分たちのことが優れていることを示そうとした。 こうすることでイスラム教徒はそれまでの文明の概念をはっきりと区別したのである。 ライバルであるキリスト教においてワインが中心的役割を担うことも、イスラム教がワインを忌み嫌う傾向を後押しした。

 

ワインの生産が不可能で輸入に頼るしかなかった地域ではビールと蜂蜜酒が主流だった。 北ヨーロッパはビール、南はワインという区分は現在も続いている。

 

アルコールを飲むどの国でも、ワインは最も洗練された文化的な飲み物と考えられている。 こうした国々の公式晩餐会や政治サミットでは、ビールではなくワインが出されるのが普通で、現代においてもワインが富、権力、地位と密接な関係にあることが分かる。

 

蒸留酒(スピリッツ)

蒸留法の誕生は古代にまでさかのぼり、紀元前4000年から3000年代のメソポタミアで生まれた。

 

蒸留を繰り返すことでアルコール濃度をさらに高めることは可能で、この過程を精留という。 蒸留の知識はアラビア人学者が守り、そして発展させた数ある古代の叡智の一つだった。

 

最初にワインを蒸留した禁欲的なアラビア人学者たちは、これを日々の飲み物ではなく、錬金術の原料または薬と見なしていた。 蒸留の知識がヨーロッパのキリスト教諸国に普及して初めて、蒸留酒はより多くの人々に消費されるようになったのである。

 

ポルトガルやスペインなど当時のヨーロッパの探検家の最大の目的は、香辛料交易におけるアラビアの独占状態に割って入るために、東インド諸島に到達する新たな海路を見つけることだった。

 

大西洋上の島々は砂糖の生産に理想的な場所だったが、サトウキビの栽培には大量の水と人的資源が欠かせなかった。 彼らはアフリカ西岸の交易所から黒人奴隷を連れてくるようになる。

 

奴隷を使っての砂糖生産は、1492年、クリストファー・コロンブスによる新世界の発見によって劇的に拡大する。 先住民を奴隷化する試みは失敗した。 先住民が次々に旧世界、つまりヨーロッパから持ち込まれた病に倒れたからである。そこで植民地開拓者たちはアフリカから直接奴隷の輸入を開始する。

 

アフリカの奴隷商人が奴隷との交換品としてヨーロッパ人から受け取ったもので、 一番欲しがったのは強いアルコール飲料だった。

ポルトガルが中心だった奴隷売買の初期に、アフリカの奴隷商人は強いポルトガル・ワインの味を覚えた。

 

ワインは通貨の代わりとして便利な品だったが、ヨーロッパの奴隷商人はすぐに、ブランデーの方がさらに有用であることに気づく。 場所を取らずにより多くのアルコールを積むことができるうえ、高いアルコール濃度のおかげで保存がきくため、ワインよりも航海中に傷みにくいという利点もあった。 アフリカの人々が蒸溜酒を高く評価したのは、アルコール濃度が高い、つまり「酔える」からだった。

 

イギリスの入植者たちはブラジルから 砂糖作りの専門知識の他に、副産物を発酵させ、これを蒸留して強力なアルコール飲料を作ることも学んだ。 これらの飲料はラムバリオン、別名キル・デビルと呼ばれた。 ラムバリオンはまもなくラムと呼ばれるようになった。

 

ラム酒は船乗りたちの間でも人気を博し、カリブ諸島の英国海軍の船ではビールに変わってなラム酒の支給を始めている。

 

ラム酒の重要性はまず、通貨として使われたことにあった。 通貨代わりになることで蒸留酒と奴隷と砂糖というトライアングルが完成したからだ。 ラム酒と交換で奴隷を買う、奴隷を使って砂糖を作り、砂糖生産の廃棄物でラムを作り、それでまた奴隷を買う、これが延々と繰り返された。

 

ポリネシアで生まれた砂糖がアラビア人によってヨーロッパに紹介され、コロンブスがそれを南北中アメリカ大陸にもたらし、アフリカ人奴隷がこれを栽培した。 砂糖生産の廃棄物を蒸留して作るラム酒は新世界のヨーロッパ入植者とその奴隷たちによって消費された。

 

ラム酒は探検時代におけるヨーロッパ人の野心と冒険心の産物だが、その一方で、彼らが長らく直視を避けていた奴隷貿易という残酷な行為なしには、おそらく存在しなかっただろう。 ラム酒は、人類史上初めて世界化が起きた時代の大勝利と迫害を体現する飲み物なのである。

 

17世紀後半から、ラム酒アメリカ、ニューイングランドでの産業発展の基盤を形成する。 ラム酒ニューイングランドの産業において最も収益の高い生産品となった。

 

イギリスの砂糖生産者は折しも、ヨーロッパの砂糖市場でフランスの生産者にマーケットを奪われつつあった。 そのためニューイングランドの酒造業者がフランスの糖蜜を買ったことは、イギリスの砂糖業界にしてみれば傷に塩を揉みこまれるようなものだった。 そのため1733年に糖蜜法が制定され、 その後は砂糖法も制定されたが、アメリカの植民地で激しい不評を買う。

 

イギリス政府はその後も評判の悪い新しい法律を次々に制定する。 その結果、 有名なボストン茶会事件が発生する。 茶は、革命の始まりに大きく関わっていたが、ラム酒もまた1775年にアメリカ独立戦争がついに勃発するまでの数十年間、茶と同じくらい重要な役割を果たした。ラム酒糖蜜に対する関税はアメリカ植民地のイギリスからの分離のきっかけになると共に、ラム酒に強烈な革命の香りを加えた。

 

入植者が東海岸から西に向けて移動すると同時に、発酵させた穀物を蒸留して作るウイスキーの人気が高まった。 独立戦争中にラム酒の原料である糖蜜の供給が妨げられていたことも大きかった。 穀類は海岸近くでは生育しづらいが、内陸部でなら簡単に栽培できる。

 

ウイスキーはそれまでラムが行なっていた通貨代わりという務めを引き継いだ。 独立戦争時に負った莫大な公債を清算する資金調達の手段として、蒸留酒の生産に連邦税を課すことに決めたのは当然の選択だった。

 

反税派の農民たちは団結して組織的な抵抗を始める。 ジョージ・ワシントンは1万3000人の国民軍を招集する。 しかし国民軍の到着前に反乱軍は壊滅を始めた。

 

結局、ウイスキー税法はうまく機能せず、数年後に廃止される。

 

ウイスキー反乱という、アメリカ独立後に初めて起きた大規模な抗議行動を鎮圧したことで、政府は連邦法は絶対であり、各州の住民は遵守すべきことを力ずくで示しえた。 そのため、この出来事は合衆国初期の歴史における決定的瞬間の一つと考えられている。

 

反乱の失敗は別の酒の誕生にも繋がった。反乱民は西に移動し、ライ麦だけではなくトウモロコシからもウイスキーを作り始める。 この新種のウイスキーは バーボンと呼ばれる。

 

メキシコではスペイン人から教えられた蒸留の知識をもとに、メスカル酒( テキーラもメスカル酒の一種)が誕生する。

 

銃器および伝染病と並び、蒸留酒は旧世界の人々が新世界の支配者になる手助けをすることで近代世界の形成に寄与した。 蒸留酒は、数百万の人々の奴隷化および強制的移動、新しい国家の建国、土着文化の征服の一翼を担ったのである。

 

コーヒー

コーヒーは17世紀のヨーロッパ社会に非常に大きな衝撃を与える。 当時最も広く飲まれていたのは、朝食の席でさえ、弱いビールとワインだったからだ。 汚染の可能性が高い水よりもはるかに安全な飲み物として好まれていた。 ビールと同じく水を沸かして作るコーヒーは、アルコール飲料に変わる、安心して飲める新しい飲み物として受け入れられた。

 

コーヒーが目新しい飲み物だったこともまたその魅力を倍増させた。 これこそ古代ギリシア人もローマ人も知らない飲み物だった。 コーヒーを口にすることは、17世紀の思想家たちにとって、古代世界の限界を超えたことをはっきりと示す表現手段の一つでもあった。

 

コーヒーを飲む習慣はまず、15世紀半ばにイエメンで普及したと思われる。 コーヒーが西方に広まるにつれて、コーヒーハウスは酒場に代わる上品かつ知的な場所であり、アルコールを出さないどんな店よりも優れている、というアラビア人の考えも同時に普及した。

 

イエメンで宗教的な飲み物として誕生したコーヒーは、アラビア世界に浸透した後ヨーロッパ中で支持され、 ヨーロッパの諸大国によって世界中に広まった。 コーヒーはアルコールに変わる飲み物として世界的な人気を博し、とりわけ知識人とビジネスマンに好まれた。 注目すべきはこの新しい飲み物の斬新な楽しみ方である。 人々はコーヒーハウスでコーヒーだけではなく会話も買った。 コーヒーハウスは社交的、知的、商業的、政治的会話のための、まったく新しい場なったのだ。

 

ヨーロッパのコーヒーハウスは科学者、ビジネスマン、作家、政治家達の情報交換の場だった。 現代のホームページと同じく、コーヒーハウスは最新の、そしてしばしば信用のならない情報の発信源であり、 それぞれの店が専門の話題または独自の政治的視点を持っているのが普通だった。

 

何よりも重要なのは、 コーヒーハウスが客、刊行物、店から店に伝わる情報で繋がれた、ニュースと噂話の情報センターだった点にある。 ヨーロッパのコーヒーハウスは全体で、理性の時代のインターネットの役割を果たしたのである。

 

ロンドンのコーヒーハウスはまさしく、近代世界を形成した科学および金融革命のるつぼだったのである。

 

今日、コーヒーやその他のカフェイン飲料を飲む習慣は広く普及しているため、コーヒー導入時の衝撃と最初期のコーヒーハウス人気を想像することは難しい。 現代のカフェの重要性は きらびやかだった先祖のそれの足元にも及ばない。 しかし、昔から変わっていないものもある。 コーヒーは今でも、人々がアイディアや情報を論じ、発展させ、交換する時に飲まれている。 コーヒーはアルコール飲料のように自制心を失わせる心配のない、交流と協力を促す飲み物であり続けている。

 

コーヒーハウス元来の文化が一番わかりやすい形で残っているのは、インターネットカフェやワイヤレスでインターネットを楽しめるカフェなどの、カフェインが情報交換の促進薬となっている場所と、モバイルワーカーたちがオフィスや会議室代わりに利用するコーヒーチェーン店だ。

 

革新と理性とネットワーク―さらに革命を求める情熱も少し― とコーヒーとの関係には長い歴史があるのだ。

 

茶は飲み物になる以前は薬や食材だった。 茶がいつどのようにして中国で普及したのかは不明だが、どうやら仏教僧の働きによるものだったようだ。

国史における黄金時代と言われると唐朝期には国民的な飲み物となった。

 

16世紀の初期、ヨーロッパ人が初めて船で中国を訪れた時、中国人は自分たちの国が世界一偉大だと信じていたが、それはもっともな考えだった。 中国は世界最大の領土と最大の人口を誇り、ヨーロッパのどの国よりもはるかに長い文明の歴史を持っていたからだ。 当時のヨーロッパの技術で中国人が知らないものはなかった。 中国はほぼ全ての分野でヨーロッパの先を行っていた。

 

茶はコーヒーよりも数年早くヨーロッパに伝わったが、17世紀の間、その影響力はコーヒーのそれと比べてはるかに小さかった。 理由は主に、茶が大変高額だったことにある。

 

最終的にヨーロッパでもっとも茶を愛する国になったのは、フランスでもオランダでもなく、イギリスだった。

 

18世紀の初めイギリスで茶を飲む者は誰もいなかったが、同世紀の終わりには、それこそ誰もが茶を飲んでいた。

 

そのうちに紅茶の人気が緑茶のそれを上回る。 その理由は、紅茶の方が長い航海中に傷みにくかったことと、 緑茶もどきを作るのに使われた化学物質の多くは毒性で、紅茶の方がたとえ混ぜ物をしたとしても安全だったからだ。 緑茶ほど口当たりが良くなく、苦味の強い紅茶が人気になるにつれて、飲みやすくするために砂糖と牛乳を加える習慣が普及した。

 

次第に、茶の知識があることと、自宅の優雅な雰囲気のなか、儀式のような作法で茶を飲むことが洗練さの象徴とみなされるようになる。

 

貧しい者たちにとっても、茶はだんだんと手の届く贅沢品になり、ついには生活必需品になった。 茶は遠く地球の反対側から運ばれてきたにもかかわらず、ついに水の次に安い飲み物になった。

 

茶は世界で最も古い帝国から世界各地に広まり、最も新しい帝国の中心に根を降ろしたのである。 イギリス人は自宅で茶を飲むたびに、大英帝国の強大な力とその広大な領土を思い出した。 茶は、イギリスが超大国に成長する過程と深く関わりながら社会に浸透し、商業国および帝国としてのさらなる発展の礎を築いた。

 

17世紀、机仕事の多い事務員やビジネスマン、知識人たちがコーヒーに惹かれたように、18世紀に新たに誕生した工場労働者たちは茶に夢中になった。 茶は、長く退屈な労働時間中に労働者の眠気を防ぎ、高速で動く機械を扱う際の集中力を高めるのに役立った。

 

イギリスに茶を供給した組織、イギリス東インド会社の政治的影響力は巨大だった。 最盛期、この会社の収入はイギリス政府の歳入を上回り、統治した人間の数は政府のそれをはるかにしのぎ、輸入した茶の関税として納めた金額は政府の歳入の10%を占めていた。 イギリス東インド会社の政策は多くの場合、イギリス政府の政策となった。

 

東インド会社アメリカでの茶の独占販売権を与えられ、イギリス政府によって独占を公認された。 1773年、反対派の一団がボストン湾に停泊中の3隻の船に押し入り、茶箱の中身を全て海に投げ捨てた。 これがボストン茶会事件である。 茶をめぐる争いは、アメリカ植民地のイギリスからの独立に向けての確実な一歩となった。

 

19世紀初め、東インド会社はイギリス政府と結託して、アヘン交易を組織化し、これを大々的に広げる。 麻薬密輸の大がかりな組織が、政府によって半ば公認される格好で確立された。 イギリス政府の目的は中国との交易における収支の不均衡の是正で、その不均衡の直接の原因はイギリス人が茶を愛好したことにあった。イギリス側の悩みの種は、中国が茶の交易品としてヨーロッパの製品に興味を示さないことだった。

 

東インド会社はアヘンの製造拡大に乗り出し

、茶を買うために、銀の代わりにこれを用い始める。 そしてアヘンは通貨として期待通りの働きをするまでに成長した。

 

アメリカの独立と中国の没落は、どちらも茶がイギリスの帝国主義政策に、ひいては世界史の流れに与えた影響の名残なのである。

 

インドは今日でも世界最大の茶の生産国である。 消費量も1位で、世界の総生産量の23%を消費しており、これに続くのが中国とイギリスだ。 世界各国の国民一人当たりの茶の消費量を調べると、かつての植民地の数字にイギリスの帝国主義の影響を今でもはっきりと見て取ることができる。 上位12カ国の中で、西洋諸国はイギリス、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランドの4カ国だけで

、中国や日本を除くと、残りは全て禁じられているアルコールの代わりとしてコーヒーや茶を愛飲する中東の国ばかりである。

 

茶の物語からは、革新と破壊いずれの意味においても、当時の大英帝国の強大な力をうかがい知ることができる。 茶は、1世紀ほどの間、世界に名だたる超大国だった国民の、大のお気に入りの飲み物だった。 以来イギリス人の茶好きは変わっていない。 そしてこの帝国とそのエネルギー源だった茶が歴史に与えた衝撃の跡もまた、今でも残っているのである。

 

コーラ

アメリカの台頭と、20世紀における戦争

政治、交易、コミュニケーションのグローバル化は、コカ・コーラが世界に普及していく動きと、ピタリと符合している。

 

他の多くの飲み物と同じくソーダ水も医薬品として登場した。 元々は医薬品だったという 事実が人々に安心感を与え、ついには清涼飲料水として広く普及するまでになった。

 

コカの木の葉に刺激作用があることは、南アメリカの人々に古くから知られていた。 コカインには少量でも、カフェインと同じく精神を覚醒し、食欲を抑える働きがある。 西アフリカ原産のコーラの木の種子は、約2%のカフェインが含まれているため、噛むと刺激作用が得られた。

 

当初のコカ・コーラは少量のコカ・エキスを含んでおり、そのため微量のコカイン成分が含まれていた( コカイン成分は20世紀初めに取り除かれたが、コカの葉の他の成分は今でも入っている)。

 

コカ・コーラは素人が自宅の庭先でたまたま作ったものではなかった。 インチキ薬のベテラン製造者が、数ヶ月間苦労を重ねながら新たな売薬の開発にじっくりと取り組んだ結果だったのである。

 

コカ・コーラは冬でも売れる暑い時期の飲み物、アルコール飲料に太刀打ちできるノンアルコール飲料、カフェインの摂取を一般に広めた飲み物、そして経済が下り坂でも人気が落ちない飲み物だった。

 

コカ・コーラを普及させたこうした要因は、ライバルである ペプシ・ コーラの台頭を促すことにもなった。 ペプシ・コーラの誕生は1894年、 コカ・コーラとまともに勝負ができるまでになったのは1930年代だった。 同じ値段で2倍のサイズのペプシは、懐が寂しい人々に大いに受けた。

 

1930年代末には、コカ・コーラはかつてないほど強大になっていた。 疑いなく、コカコーラはアメリカを代表する名物であり、売上量は全米の炭酸飲料水全体の売上のほぼ半分を占めていた。 大量に生産され、大量に市場に出回る商品であり、貧富の差に関わらず誰もが等しく口にできる飲み物だった。 まさしく、アメリカを象徴するすべてのエッセンスの極みだった。

 

コカ・コーラは不可欠な軍需品として認められた。 軍は基地内に瓶詰め工場とソーダファウンテンを作り、コカ・コーラの原液だけを出荷させることにした。 各地で生産されたコカ・コーラは海外の米軍基地の近くに暮らす民間人にも飲まれ、世界中の人々がコカ・コーラを初めて口にすることになった。第二次世界対戦のおかげで、コカ・コーラの素晴らしさがほぼ全世界で認められた。

 

コカ・コーラアメリカだけでなく、自由、民主主義、自由市場を基盤とする資本主義という西側の価値観全体と結びついていく。 共産主義者の間では反対に、コカ・コーラは資本主義のありとあらゆる欠点の象徴であるとみなされるようになった。

 

コカ・コーラというアメリカ産清涼飲料水への攻撃を通じて反アメリカ主義を証明するという姿勢は、いくつかの地域で具体的な行動として現れている。

 

消費者主義と民主主義の広がりに合わせて、この茶色い炭酸飲料が世界中に普及していっているのは事実である。

 

地球規模で見ると、コカ・コーラ社は人類全体が消費する飲み物の3%を供給している。 コカ・コーラは20世紀を、そして20世紀とともに起きた全ての出来事、合衆国の台頭、共産主義に対する資本主義の勝利、グローバル化の進行、を象徴する飲み物である。

 

原点回帰

六つの飲み物が人類の歴史を形作ってきた。 では、未来を代表する飲み物は何だろうか? その飲み物とは、水だ。 人類の飲み物の歴史はここに来て原点に戻った。

 

水に対する態度の違いほど、先進国と発展途上国の差を明確に表しているものはない。

 

先進国では安全な水が有り余っており、人々は目の前の安全な水道水を素通りして容器入りの飲料水をわざわざ買う。 対照的に、発展途上国の多くの人々にとって、水を手に入れられるかどうかは依然として生死に関わる大問題である。

 

古代の飲み物を探して

古代のビールと現代のビールとの最も大きな違いは、ホップの有無にある。 ホップを使うと味に苦味が加わり、麦芽の甘みを抑えてすっきりとした味わいになる。 ホップが保存料として働き、ビールが腐りにくくなるという利点もある。 ホップがビールの一般的な原料になったのは12世紀から15世紀の間である。

 

参考文献

 

歴史を変えた6つの飲物   ビール、ワイン、蒸留酒、コーヒー、茶、コーラが語る もうひとつの世界史

歴史を変えた6つの飲物 ビール、ワイン、蒸留酒、コーヒー、茶、コーラが語る もうひとつの世界史